さざえ堂と山寺

福島と、山形に行ってきた。

とくに予定を決めてはなかったんだけど、前から気になっていた会津若松にあるさざえ堂というお堂だけは行きたかった。

お堂の中がらせん状になっており、登りと下りが別々になってると言う面白い建物だ。

 

白虎隊が自刃いした地である飯盛山と言う山があり、そこからは会津若松の街並みを見降ろす事も出来る。

その山の中腹にさざえ堂は有り、寛政8年建立とあるからかなり古い建物だ。

 

 

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おお!木造の渋い建物だ。

拝観料400円を払い中へ入る。

 

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年を取ってくるとこう言った神社仏閣がなぜか好きになってくる。

単純に、古いものはそれだけで畏敬の念を抱いてしまう。

 

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木だからギシギシ音がするんだけど、上からも降りてくる人の音がする。

 

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色々な張り札がしてあるが、残念なのは悪戯書きもしてあって、全くこれには憤りを覚える。

神社仏閣ガールか、白虎隊ガールか分からないが二人組の女性も居たがどちらだろう?(まあどうでも良いけど)

基本的に年配者の観光客の方が多いかも。

 

 

次の日は山形へ。

山形県は何があるのだろうと思ったが、銀山温泉が有名みたいだ。

銀山温泉の先に銀山湖という湖があるあのだが、ここがもしかして開口健が釣りをしたところかと思ったが、それはどうも新潟の銀山湖であった。

そもそも銀山温泉までは遠いので(宿は高そうだし)、山寺というお寺に行く。

写真か何かを見て良いなと思ったのである。

 

山寺は宝珠山という山を登らなくてはならない。

結構な段数の階段を登っていくが、この日はもう11月になろうとしているのに暑かった。

登山をする事態が修行の一環なのだろう。

 

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山の崖にも建造物が見えるが、昔は壁を登ってここにも行けたそうで、欲望や願望が強かった人は急いで登った為に途中で落ちて死んでしまったそうだ。

欲望や願望を無くしたい!といった欲望を持っていた人はどうなんだろう?

 

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少し登ると展望が開けてきた。

 

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左に小さなお堂があるが、これが赤色なのが良い感じだ。

たぶんこれが無かったら印象も変わってきてしまうだろ。

良い感じだけど、午前中なのに参拝客も凄かった。

 

お堂やお地蔵さんも沢山あり、大きな岩には名前が付いていたり...。

この山自体がアトラクションみたいな感じで、それは昔も今も変わらないのだろうね。

 

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途中の展望台(?)から見える里山の眺め。

これも日本の原風景が残っていて実に美しい。

 

山形を車で走っていると、そう言った日本の原風景を沢山目にする。

綺麗な箇所があるといちいち車を停めてしまう。

 

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果物畑も沢山あり、この時期はぶどうやラフランスが採れる。

どちらも頂いたけど、これまた美味。

 

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天気も良く良い旅であった。

 

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名も無き入江

2015.11.1

2年くらい前に、外房勝浦の鵜原と言う所に行った。
この辺りはリアス式海岸で、幾つか入江がある美しい所だ。

隧道を幾つか潜り抜け、綺麗な海岸や漁港などを訪れた。
しかし、この時どうしても行きたかった、ちいさな入江には辿り着く事が出来なかった。

地図上ではかなり近いところを歩いているのだけど、どの隧道を潜れば良いのか、それとも山道を登れば良いのか皆目見当がつかなかった。
ただ帰り際、通って無い隧道があったのでその隧道がアヤシイなと思ったが、その時は「また何時か」と諦めてその場を後にしたのだった。

で、この日その「また何時か」の機会が訪れた。

前回潜った隧道の脇に、上に登る石段がある。
ここを登ってみる。

その階段を登ると、またもや隧道がぽっかりと開いていた。
この辺りの隧道は、東京の地下鉄みたいに立体に入り組んでいるから分かり辛い。

ここは前回は通って無い隧道だ。
早速、奥へ行ってみよう。

すると、どうだろう。
この道を真っ直ぐ行けば、たぶん前回の海岸の辺りに出ると思うのだが、左下に降りる階段がある。

これはアヤシイ。
これは間違いなく行きたかった幻の船着き場へと降りる階段だ。

今度は階段を下りていく。
すると、トタンの小屋が見えてきて、その奥に青い海が見えだした。

これはもしかすると...。

やっぱり!

やっと辿り着いた名も無き入江。
前回、ここへ来たかったのだ。

こじんまりとしているが、実に美しい所である。
海が穏やかなので、底が見えるくらい水は綺麗だ。
残念ながら、魚は泳いで無かった。

さらに奥に行くと、船着き場があった。

漁師さんだろうか、男性の声が聞こえてきて、投網か何かを手入れしているのだろう。

それにしても静かなところである。

僕はここで10分くらいボーっと佇んでいた。
この場所でコーヒーでも飲みたかったけど、たぶん味は最高だろうな。

最後は、サーファーが居る海岸へと。
この日は穏やか過ぎて、サーファー達にとっては残念なコンディションだっただろう。

塀に背を向けて座り、日向ぽっこをしていた地元のお爺ちゃん二人が、幾つかの木片を持って真剣に話し合っていたのが可愛らしかった。

果たして、話はまとまったのだろうか?

信州蕎麦の旅

2015.10.14-16

僕は蕎麦が好きなので、前々から長野で蕎麦屋をめぐる旅がしたいなと思っていた。
そんな訳で、戸隠に行ったばかりなのだが、また長野へ旅立ったのだ。

とにかく、前回来た戸隠がとても良い印象だったのでもう一度来たいと思っていたが、こんな早く訪れるとは思わなかった。
もともと標高が高い為もあるのだが、数日前と比べると非常に寒く、手袋が欲しい位だった。

目当ての店が休みだったが、蕎麦屋は他にも沢山ある。
幾つか廻ったが、驚く事にどこも混んでいた。
前回の印象からそれ程観光客が多いとは思わなかったが、鏡池が近くにある『そばの実』という蕎麦屋は30分以上も待たされた。
これは予想外と言うか、まさかこんな所まで来て待たされるとは思ってもみなかった。

多分、長野に住んでいる蕎麦好きの人から言わせれば、そんな観光客相手の店はどんなものかと言われそうだが、なかなか良い店だった。
とにかく、景色のいい所で食べているからなおさら良いのだろう。

近くに戸隠神社中社があるのでそちらも参拝に行く。
こちらも大きな杉が有ったりと、実に立派であった。
戸隠山へはここからスタートしてもありがたみが有ってよさそうだ(まあその分距離は歩くが)。

次の日は信濃大町にある蕎麦屋に行く。
大町も、夏の登山の時に訪れたが、自然の中を自分で運転して走るとまた趣も違う。

登山で長野県を訪れる場合が殆どだが、そう言った意味では今回の旅は長野北部の地上部を走る旅でもある。

大町にある『山品』と言う、地元の蕎麦粉を使ってる蕎麦屋に行く。
こんな田舎の蕎麦屋はあまり人が来ないかなと思ったが、あれまあ沢山いらしゃって列が出来ていた

この時期は新蕎麦の季節で、それに合わせてお客も来ているようだ。

蕎麦屋というより、一般の民家にお邪魔する感じの佇まい。
最初は細々と蕎麦を打っていたのだろうが、人が多くなるにつれ一階の部分を店にしてしまった様だ。
その為、僕が座った席の脇には思いっきり仏壇が置いてあり、思わず線香の一つでもあげたくなってしまう。
なんだかお婆ちゃんちにでも来ている感じで、とても心がなごむ。

お蕎麦も付け汁もいかにも手作りと言う感じで(もちろん手打ちに決まっているが)、特に蕎麦つゆが美味しかった。
ここで働いている年配の女性達も近所から手伝いに来ている感じで、地元の人がちゃんと働き口が有るのもよろしい。

この周辺では仁科神明宮という神社へ寄った。
実は、”神様のカルテ”と言う本を読んで、その描写がなんとも素敵であったのでどんなものか訪れてみたい個所だったのだ。

神社はこぢんまりと山の中に有り、大きな杉林に囲まれ人も居なく静寂とした感じもまた神々しい。
ここはやはり本で読んだ通り実に素敵な場所であった。
何と言うか神聖な気持ちになると言うか、ストンと気持ちが落ち着く。

雪の降る中、こんな所で年越しが出来たら良いだろうなと思う。
そう言えば僕は何時からであろうか?神社好きになってしまった様で、まあそれも年を取ったと言うことだろう。
たぶん10数年位前だったらあまりこれ程興味は持たなかったんじゃないかな?

そこから山間部を抜け別所温泉へ。

ちょっと街を散策したが、日が暮れるとあまり外を出歩く人が居ない。
東京では18時と言ったら、まだまだ帰宅途中の人で溢れかえっているのに、何なんだこの人気のなさは。
ただただ近くに流れる小さな川の音と、秋の虫の音だけがするだけ。

ただ朝は早い。
朝早く起きて、近くに多宝塔を拝みに行く。

まだまだ田舎の方は、太陽と共に生活すると言う事が当たり前なのかもしれない。

そして三日目はまた上信越を北上して、ウチのヒトのリクエストである小布施へ。
『鼎』(かなえと読む)という蕎麦屋へ行く。

ここでは十割蕎麦を食べたが、正直ここの蕎麦が一番おいしかった(と言うか好みだった)。
でも十割蕎麦ってどうして大根おろしが付くんだろう...。

まだ昼前なので空いていたが、店を出る頃には既に人が並んでいた。
小布施という街は、物凄く観光客が集まるそう言う場所であったのだ。

正直、蕎麦を三日間連続で飽きるかな?と思ったが、飽きることなくとても美味しくそして楽しく頂く事が出来た。
もちろんまだまだ信州蕎麦は奥深く、さらに探究してみたいが、その前に自分でも蕎麦を打ちたくなってしまった。

それはともかく、長野は本当に素敵な所だ。
食べモノでも何でも”長野”と付くだけでブランドみたくなってしまうし、僕が茨城出身だからじゃないけどやはり山の魅力もあるのだろうな。
ブツブツ...。

でも冬は辛そうだ。

白神山地まで

2014.10.15

東北へ行くのはほぼ初めてで、鳥海山へ登った時山頂の県境で少し秋田県を跨いだ程度だった。
その東北、特に青森にある白神山地に前々から興味があったので行くならそこへ行きたいと思っていたのだ。

宿がある鯵ヶ沢から車で1時間半くらい、日本海側の道を能代方面に南下する。
前日は台風の影響で海は荒れ模様だったが、地元の人から言えばこの辺りは常に荒れているとの事だった。
しかし、台風一過と言う事もあり、この日は風も無く実に良い天気だった。

大体、あまり車なんか走って無い。
紀伊半島や西伊豆をイメージしていたが、走っていると集落や小さな街があったりする。
晴れているからか、その全てが実に美しい。
たぶん真冬に同じ場所に来てみたら、これは実に寂しいところなのかなあと想像する。

少し走ると、日本一の銀杏の木と言うものがあったので寄り道。
まだ銀杏の葉は紅葉しては無かったが、根元に立てばその大きさに驚く。

何とも神々しい。
こう言うあまり有名な観光名所では無い所を廻るのが僕は好きである。

驫木という小さな駅があったが、時刻表を見るとこの五能線(五所川原と能代を結ぶ)は一日に5本くらいしか走って無い。
運よくその一本と出くわしたため、鉄ちゃんみたくカメラを構えてしまった。

途中にある漁港なんかも良い感じだが、これだけ海が近いのにあまり釣り人を見かけないのはもともと人が少ないからだろうか?
砂浜などではいかにもヒラメが釣れそうだが、この辺りはイカが有名らしく、イカ焼きやさんがチラホラと有った。

渡良瀬川と言ったかな?行きの時に非常に美しい風景だったので帰りがけに寄ってみたのだ。
(後で調べたら渡良瀬川では無く追良瀬川だった)

すると地元のおじさんが、「あんだらどこから来たべ?」と東北弁で声をかけてきた。
「橋の上がらサケの産卵が見えっど」とフレンドリーに手招きしてくれた。
東北の人は恥ずかしがり屋と聞くが、このおじさんはおしゃべり好きの様である。

橋の上から川面を見下ろすと、遡上してきた大きなサケが雄が雌をめぐって至る所で水柱を立たせている。
北海道で、サケが遡上しているところは見たが、産卵の模様を間近で観たのは初めてであった。
それにしても、静かで実に美しいところで、気持ちが和やかになる。

ちなみにこのおじさんは鮎を600百匹釣ったと自慢していたが、本当なのだろうか?

意外と白神山地までは遠く、神と言うだけに山深いところにあって、なかなか人間を近づけさせないのだろう。
この辺りはブナの原生林と言うことで世界遺産登録がされているが、表だってあまり世界遺産と言う事は謡っていなかった所が逆に好印象である。

白神山地への入口は大きく2つある。
内陸側と海側であるが、最初はその二つを結ぶ林道を抜けようかなと思っていたが、この林道は夏季だけしか開通していないとの事。
しかも、かなりのワイルドロードで有るらしく、時間もそれなりに掛るとの事だった。

さて少し山道を登り、やっとの事で目的地に着いた。
車を駐車場に止めて、一時間くらい白神山地の一部を散策できる(そう言うコースがある)。

先ずは、旅の目的でもある青池と言う場所。
ここは歩いて直ぐ有った。

深さは9メートルあり、湧水が湧いていて非常に綺麗だ。
しかし、残念なことに光があまり届いてないのか透明度が落ちて、青と言うより群青色と言う感じであった。
しかも池の半分に落ち葉が散乱していた。
これはちょっと残念と言うか、この場所は新緑の季節か、トップライトが落ちる真夏がベストシーズンなのかと思った。

ただ、池の中を泳いでいる岩魚はとても幸せっそうだった。
あ、そうだ岩魚もそうだけど、近くにイトウの養殖場もありちょっと寄ってみたのだが、まるで池の巨鯉の様に大きくてびっくりした。
ちなみにこのイトウのお刺身は非常に高価。

その隣にある湧水の池は、良い感じに日が当たっていた。
ここも透明度は高く綺麗で岩魚も泳いでいた。
ちょっとルアーを投げてみたい気もするけど...。

ブナの原生林と言うが、正直どの木がブナなのか分からない。
お土産屋でブナの木を使ったお皿があったが、その値段を見てぶっ飛んだので、とても高価な木である事は間違いない。

どうも僕は巨木が好きなようである。

島根の旅

2013.10.7~9

ウチの人のリクエストで島根県に行ってきた。
島根県や鳥取県や山口県などはみんな一緒な感じがする。
向うの人から見れば、群馬県、栃木県、茨城県の区別がつかないのと同じだろうか。
まあとにかく、中国地方は初めてだったのだ。

心配された台風23号は大陸の方に行ってくれたので、初日は実に天気が良かった。
宍道湖を横目に見ながら、田園風景を縫うように出雲市に向かう。
宍道湖から日本海に流れる川(何と言う川だったけな?)が、茶色っぽく見えるが、これは茶色っぽい砂地なのでそう見えるだけだ。

基本的に田舎の方は片側一車線なのだが、殆ど車も走ってなく、それに信号機も少なく(赤信号は無く黄色点滅)とても走っていて気持ちの良い道路だ。
しかし、いざ出雲大社の駐車場へと行くと、駐車しようとする車で渋滞していた。
仕方なく少し遠い場所に駐車し、参道から少し歩いて神社に向かった。

どこから人が溢れてきたのだろうかと思うくらい境内は参拝客で混み合っていた。
はるか昔の出雲大社は50メートルもの高さを誇っていたとあるが、現在の出雲大社もその威厳たる造形美は、十分に人を魅了する。

まあとにかく出雲大社に関しては人が凄く、それと夏みたいに暑かった。

近くにある日本海に面した浜辺は、これから台風24号が接近するかもしれないというのに、極めて穏やかだった。
あまり日本海方面に来ることは無いので、車で峠を越えて散策してみると、小さな良い感じの漁村に出た。

山に囲まれてるのか、キツネがひょっこり出てきたから、それほど人の往来も少ないのだろう。
一応バスも出ているみたいだが、一時間に一本という少なさ。
最近(でも無いが)、こう言った田舎の漁村巡りが好きになってしまい、この漁村も非常に旅情を掻きたてられた。

ライトタックルを持ってきていたから、岩場で竿を出すとすぐさま小さなメバルやソイが釣れた。
出来る事なら都会の喧騒を忘れて、こんな場所で一週間くらい滞在したいなとも思う瞬間だった。

二日目は、大田市界隈へと向かう。
世界遺産の石見銀山だが、この辺りはオレンジ色の瓦屋根の日本家屋が多い事に気付く。
そのオレンジ色の瓦屋根を見ている感じは、少しだけイタリアを思わせる。
それと古くからの仕来たりみたいなものを守っているんだなと思った。

この辺りは世界遺産でもあるので、観光客もチラホラと居た。
電動自転車で山の奥まで行き(これは楽ちん)、銀山の発掘場所まで辿りつくと、なんと入場料の支払いがワオンカードでオーケーだった。
こんな場所でちょっと違和感を感じたが、まあ100円引きになるので有難い。

ついでに、この瓦屋根地区でカレーライスを食べたんだけど、ハンバーグが乗っていて非常に美味しかった。

午後は特にやることが無かったので、また漁港で釣り。
地元の人たちや、何故かネクタイを締めた人も集まってわいわい釣りをしてた。
しかも海面から結構な高さのある堤防に、足をぶらぶらさせて竿を出しているからよほどのツワモノなのだろう。

僕はその高さにビビりつつ竿を出した。
足元をみると墨跡が沢山あったから、これはイカでも釣れるのかも?と期待したが、突っついてくるのは小さいカワハギくらい。

そして最終日は心配された台風も、未明から朝にかけて物凄い威力で通過して行ってくれたから、何とか東京に帰る事が出来た。
台風で飛行機が欠航になってしまうのではと延滞を覚悟していたので、これは非常に有難かった。
(それにしても今年は台風の当たり年だなあ)

その台風の影響を受けて、蒸し暑く雨も降ったり止んだりだったが、一通り市内を回る事が出来た。

松江城にも登ったが、天守閣の床で躓いてしまい転びそうになってしまった。
そもそも日本の城と言うものが昔の建物な訳で、これは完全に現代の建物の造りとは違う訳だ。
例えば木製で出来た急角度の階段なんかで転んだら、これは大けが間違いなしだろうと思った。

城を出た辺りで、救急車のサイレンの音がこだましてきたが、それがだんだんと今いる場所に近づいて来た。
まさか、今の城で観光客が階段から落ちたのか?と冗談を言っていたのだが、なんと救急車はお堀を渡って城内へと入って来た。

ん?まさか?と思ったが、どうも場内でけが人が出たとの事で、レスキュー隊の方たちも駆け足で城内へと入って来て物々しい雰囲気となった。
まあ詳細は分からなかったが、リアルタイムだったのでそのギャップに驚いてしまった。

島根や鳥取は人口が少なく、東京の一つの区の方が人口を上回る程だ。
市街地を少し外すとあまり人が歩いているのを見ない。
学校があったので、校庭には生徒達が居るのかな?と思ったが、教室で授業中なのか人影は無く、その代わりその脇の広場では老人たちがゲートボールをやっていた。

東京と言う場所が、異常に人が多いだけなのだ。

田舎の人がとても暖かく感じれられるのは、決して錯覚では無いだろう。
台風情報に翻弄されながらもなかなか良い旅が出来た。

理想郷

2013.4.8

僕が房総半島に行ってきたと言うと、必然的に「釣り?」と聞かれる。
今回は釣りが目的ではなく、勝浦にある鵜原という所を尋ねてみたかった。

この鵜原と言うところは『理想郷』と呼ばれ、胡散臭い新興宗教がらみかと思いきやそれはまったくの勘違い。
大正時代に後藤杉久と言う偉い人が、この辺りを一大リゾート地にしようとしたことから『理想郷』と呼ばれたそうだ。
結局は関東大震災など色々あってリゾート開発は頓挫してしまったのか、そのお陰で昔と変わらぬ佇まいが残っている。

車を降り、その美しい砂浜に降り立つと、濃い潮の香りがしてきた。
多少風が有るので、数人のサーファー達が波乗りを楽しんでいる。
この辺りはリアス式海岸になっていて、太平洋からの漂流物があまり流れ着きにくいのかとにかく砂浜は綺麗だった。

その近くの静かでこじんまりとした漁港に車で移動すると、港の水は透明度が高いのかエメラルド色をしていた。
足元を除くと、何やら青っぽい小魚が物凄いスピードで泳いでいた。

イワシだ!

まるで水族館で見るような感じでイワシの群れが狭い港内を泳いでいた。

これは青物か何かが入り込んでいるに違いない。
そして案の定堤防の先端にいたおっちゃんが、大きな鯵を釣りあげていた。
時たまイワシも混じり、アジ、イワシ、アジ、イワシと交互に釣れて、たまにドヤ顔でこっちを見ていた。


あれ?左奥に更に船着き場が見えるぞ

しっかりと僕も小さいルアーを投げてみたが、足元からウツボが出てきただけだった。
まあ今回は釣りが目的では無いので、色々と散策をしてみる。

トンネルをくぐると隣にも漁港が有り、ここもこじんまりとした漁港だった。
この辺りは山を削ったトンネル、つまり隧道が至る所にある。
漁港の脇に小道が有り、興味深く進んでいくと、そこにも人の背丈くらいのトンネルが口をあけていた。

この隧道の先には一体何が有るのか、これはもう奥に進むしかないと隧道を進む。

と言うか、実は最初に訪れた漁港の奥に、もう一つ崖の奥に漁港を見つけたのだ。
漁港と言うよりも船着き場という感じだろうか、どうしてもその場所を見てみたかったのだ。

この隧道を抜ければその小さな船着き場に行けると思い、腰を曲げて長いトンネルを進む。

しかし、隧道を抜けるとそこは最初に訪れたサーファー達がいる砂浜へと出たのだ。
一瞬、きつねに抓まれた感じだったが、この砂浜と漁港は山を挟んで隣接した位置関係だった。
その砂浜とは逆、つまり隧道を折り返すような感じで小道が続いていたのでさらに奥へ進んでいく。

進めど目的の小さな船着き場は見つからず、またまた違う隧道を潜ると岬に登る階段が現れてきた。
この先理想郷と書かれているので、成行きに任せ階段を登っていく。
階段を登り、小高い岬の上に出ると展望が開けた。

リアス式による美しく荒々しい鵜原の海が一望できる。
おお、これが理想郷前景か!と感嘆するが、お目当ての船着き場が何処にあるのかここからでは確認できない。
足元は断崖絶壁で、おしりの辺りがキュっとなってしまう。

ちなみに、三島由紀夫は少年時代に鵜原を訪れ、その美しさを忘れられず大人になって『岬にて』と言う鵜原が舞台の小説を書いたそうだ。
ここがリゾート地になってしまったらもしかしたらその小説も生まれなかったのかもしれない。

結局、ひと山登った疲労と空腹に耐えかね、小さな船着き場の散策は諦めることにした。

車を停めていた駐車スペースの手前にも気になる隧道があったのだが、今思うとそこがあの船着き場に通じる道だったのではと思う。
小道やトンネルが入り組んでいる為、まるで不思議の国のアリスの様な感じだが、やはり空腹には勝てず鵜原を後にしたのだった。

機会が有れば、また何時か尋ねてみようと思う。

軍艦島

2012.10.9

軍艦島上陸。
それはエキサイティングな体験だった。

端島は長崎半島から西に約4.5㎞にある面積63000㎡の小さな島。
かつては、三菱の経営で海底炭鉱として操業されていて、最盛期には5000人以上もの人々が住んでいたと言う。
島は護岸され、高層鉄筋アパートが屹立し、その外観が軍艦の「土佐」に似ているところから「軍艦島」と呼ばれるようになる。
エネルギー需要が、石炭から石油に替わった為、1974年の1月に閉山しその4月に無人島になった。

それから40年の月日が経ち、かつて島民が生活していた住居等は廃墟と化し、それは今でも取り壊されずに存在し、しかし時と共に風化しつつある。
僕は、その圧巻でノスタルジックな写真を何かで見た時に、何時かは行きたいなとずっと思っていた。
そして念願だったその軍艦島がある長崎へと行ってきたのだ。

午前中の早い時間に長崎空港に着くと、東京の気温と比べると幾分夏の暑さが残るが、実に穏やかな気候だった。
軍艦島行きは次の日に予定をしていたが、これはもしかすると今日の内にツアーに参加した方が良いかなと思った。
予定変更は無理そうだなと思ったが、一応ツアー会社に変更の電話するとちょっと九州訛りの年配女性が出て、いとも簡単に「良いですよ」と言うことだった。
午前と午後で日に2回、軍艦島行きの船を運航しているので、早速その日の午後の便に乗船することにした。
この軍艦島上陸に関しては、風速5メーターを超えると上陸困難と言うことで、上陸出来る確率は3分の1というちょっとギャンブル的な要素があった。
だから、午前中は風は穏やかだが、午後は強くなると言うことも十分にあるが、こればっかりは祈るしかない。

ツアーの船は長崎港から出港する。
思ったよりも結構な参加者がいて、大盛況と言った感じだった。
造船所や護衛艦が連なる長崎港を抜け沖に出ると、やはり風をもろに受ける。

遠くに霞んだ島が出てきて、最初はそれが軍艦島かと思ったが、これはトーマスグラバーさんの別荘があったという高島と言う島だった。
更に進むと、中之島の少し後方に、なんともアヤシイ建物が見えた。
それが軍艦島だ。

中之島を廻り込むように、ゆっくりと軍艦島に近づいていく。
写真で見ていたものが現実に近づいてくると、なんとも興奮してきた。

こ、これは!

何も無い海にいきなり風化し灰色となった建物群と、その人を寄せ付けない不気味で圧倒的な景観は、感動すら覚える。

そして軍艦島に到着し、船はドルフィン桟橋に横付けされ、いよいよ上陸する事となる。
無茶苦茶興奮してきた!

桟橋からの海は非常に綺麗で、浅瀬を覗くと、アオリイカがプカプカと浮いていた。

この軍艦島と言う島は、もちろん石炭を掘る為に作られた言わば人工の島だ。
端島は元は岩礁帯であり、採炭が本格化すると拡張に拡張を重ね、そして今日の島の形状となった。
当時は草木などの緑は無く、正に人工の島だったのであろう。

さて桟橋から降りて、最初に目に入るのが奥にある7階建ての端島小学校。
当時は500人以上もの子供たちが、そこで勉強したり遊んでいたそうだ。
学校だから、音楽室や図書館、理科室などがあり、給食を運ぶ為に島唯一のエレベーターもあったみたいだ。
それと手前に見えるのはベルトコンベアーの跡で、石炭を運搬船に載せる時に使ったみたいだ。

現在見える木や雑草などは、植物の種を食べた鳥が糞をして、それが土に返り自然に生えたものだ。
特に当時の女性達は、草木が無いのは寂しいと思い(そりゃそうだよね)、アパートの屋上に土を持ってきて畑を造ったみたいだ。
正に日本初の屋上菜園だったのかもしれない。

丘の上に真新しい灯台が見えるが、これは閉山後に作られたもの。
端島の採掘作業は24時間フル稼働だから、どこかしらに明かりが灯っていて、夜間での船の往来には問題なかったのだが、さすがに閉山後は危険と言うことで改めて灯台が作られた。

石炭が採れない事には意味がないので、当時の人間は掘りに掘った。
深さは1キロにも及び、海底の採掘区域は島から2キロ先まであったと言う。
採掘作業は命がけで、現在から比べるとその過酷さは想像すら絶する。

作業を終えた作業員たちは、全身真黒で、白く見えるのは目と歯だけだったそうだ。
なので御風呂は3回に分けて入るとのことで、先ずは海水で汚れを落とし、最後に真水で海水を落とすと言った風呂に入るのにもかなりメンドウだったろう。

30号アパートはなんと大正5年に建てられた日本最古の鉄筋コンクリートの7階建てのアパートだ。
大正5年と言うと何年前だよ!と言うくらい昔だが、その当時はかなりハイセンスでハイテクな建物に違いなかった。
地下には共同風呂があり、1階には郵便局や床屋もあるから、まあ今でいえば六本木ヒルズみたいな感覚なのだろうか?

作業員達の家族が暮らすアパートはもちろん、マーケットや学校、病院などの施設は十分に揃っていたと言う。
昭和中期になると、テレビなども普及されるが現在みたいな共同アンテナなどなく、個人個人でアンテナを立てるからアパートの屋上はアンテナだらけだった。
テレビ以外にも娯楽は有り、映画館や児童公園、プール、テニスコート、パチンコホールまであった。
お祭りや運動会やマラソン大会もあり、マラソン大会などは道が狭く追い抜くことが困難だったらしい。
野球なんかのボール遊びは思いっきり出来なかったみたいだが、釣りに関してはいつでも出来ただろうね。

当時の写真を見ると、グラウンドで自転車に乗っている子供たちが写っているが、この島で自転車が必要かどうかちょっと疑問に思う。
これだけの島に5000人と言う超過密都市だが、それでも人々はそこで強かに生活を送っていたのだろう。

時に台風や高波の被害にも屈指ず、戦時中は軍艦と間違えられて魚雷を打ち込まれたり、赤痢などの問題を乗り越え、端島住民は石炭を掘り続けた。
当時の映像で、護岸された場所から日に焼けた子供たちが荒波の中に飛びこんで遊んでいる映像は、今ではちょっと考えられない光景だ。
今多くの人がこの軍艦島に魅かれるのは、その時代の影にひっそりと残っている、当時その場所で生きていた人々の力強さなんだろう。
それは間違いなく、高度経済日本の土台を陰で支えてきた証であり、しかし間違い無く風化しつつある建物群は、何とも愛おしさを感じてしまうのであった。

2009年、この端島は世界遺産暫定リストに掲載された。
本来なら、居住区の奥やアパート内を散策したいところだが、一般の人間が上陸できる範囲はごく限られた場所だけだ。
しかしそれは、風化し続けるこの島を、少しでも長く残したいと想う人達の願なのだ。

さよなら軍艦島。